昨日より風は弱まりましたが、それでも一日中風が吹いていました。
最近読んだ太平記の古戦場、竹之下周辺を歩きました。
渡り上り
五輪塔
竹之下合戦跡
三国山
足柄支所入り口付近の石碑
足柄駅から見た金時山
菰釣山
足柄峠手前から見た富士山
東富士演習場 高畑着弾地
『太平記』
左馬頭直義は箱根路を防ぎ、将軍足利尊氏は竹下へ向ふといふ手筈が定められた。新田勢は伊豆の府を出発して今夜野七里山七里を越すと云ふ事であつたから、足利勢はわづかの軍勢で竹下へ向つてゐた。やがて夜が明けると、尊氏は十八万騎をひきつれて竹下へ着き、直義は六万余騎で箱根峠へ着いた。
官軍は竹下へは、中務卿親王に公卿殿上人をはじめ、脇屋右衛門佐義助を副将として、七千余騎で搦手の軍勢として立ち向ひ、箱根路へは新田義貞を始め重立つた一族の者二十余人に国々の大名三十余人を合せ、都合七万余騎で大手の軍勢として立ち向つた。大手搦手、敵身方、共に鬨の声を上げて山川をゆるがし天地をとどろかし、わめき叫んで攻め戦つた。菊池肥後守武重は箱根の戦の先がけをして足利勢の三千余騎を遠く頂の方へ追ひ立てゝ一休みしてゐた。これを見て身方の軍勢は、一軍づゝ陣を取つては攻め上り攻め上りしてわめき戦ひ、又大将義貞が一段高い所で諸軍勢の振舞を見てゐるので、皆勇み進んで戦つたから、足利勢は防ぎかねて退却した。
竹下へ向はれた中務卿親王の軍勢は、五百余騎で錦の御旗を先に立てゝ押し寄せたが、一度に攻めかかつてきた敵を真上にうけて、一たまりもなく一戦もせずに引き退いた。これを見た副将の脇屋義助は七千余騎を一軍として馬の頭を並べて攻め入つたが、敵は少しもひるまず、東西南北、四方八方に攻め合ひ、一人も退かず互ひに討ちつ討たれつして戦つた。脇屋義助の子で今年十三歳の式部大輔は、敵身方が引き分れた時、どうして紛れたか敵の中へ残つてしまつた。この人は幼いが敏捷な人であつたので、笠符(かさじるし)を投げすて、髪を乱して、敵に見知られぬやうにと落着いてゐた。父の義助はそれを知らず、討死をしたか生捕られたか、二者の中一つに定まつてゐる、子の生死を知らないでどうしようと、敵の大軍中に攻め入つた。それを見て義助の兵三百余騎もつづいて攻め入り、敵を追ひ散らしてしまつた。式部大輔義治は父の軍勢と見て引返し、馬を走らして父の陣中へかけ入つた。義助はこれを見て、死んだ者が生きかへつたやうに悦び、暫くの間人馬を休めようと、又元の陣へ引返した。
さて新手を入れかへて戦はうとした所、千余騎で後に控へてゐた大友左近将監、佐々木塩谷判官の二人が、足利勢に加つて官軍に向ひ射かけ始めたので、官軍はたまりかねて佐野原へ引き退き、ここにも止まり得ず、伊豆の府でも防ぎきれず、搦手の寄手三百余騎は東海道を西の方へと先を争つて逃げて行つた。
太平記
下記サイトより
http://www.j-texts.com/yaku/taiheiky.html
『梅松論』
竹の下・佐野山・伊豆の国府の合戦
海道の合戦難儀たるよし聞こし召して将軍仰せられけるは、「守殿(=直義)命を落とされば我ありても無益なり。但違勅の心、中においてさらに思し召さず。是正に君の知る処なり。八幡大菩薩も御加護あるべし」
先達て諸軍勢をば向けられしかど御遠慮ありけん、小山・結城・長沼が一族をば惜しみ止めらる。
この輩は治承のいにしへ頼朝義兵のとき、最前に馳せ参じて忠節を致したりし小山下野大掾藤原政光入道の子供の連枝の人の子孫なり。曩祖(だうそ)(= 先祖)武蔵守兼鎮守府将軍秀郷朝臣(=藤原秀郷)、承平に朝敵平将門を討ち取りて子々孫々鎮守府将軍の職を蒙りし五代の将軍の後胤なり。累代武略の誉を残 し、弓馬の家の達者なり。
その勢二千余騎仰せを蒙りて将軍の先陳として建武二年(1334)十二月八日鎌倉を御立ありければ、諸人箱根の御陳に加て御合力あるべきと思ふ処に、将軍謀に仰せられけるは、
「我水呑に至り、その敵を支ふる計りにて利を得ること有るべからず。此あら手を以て箱根山を越えて発向せしめ合戦を致さば、敵驚き騒がむ所を誅伐せん事案の内なり」とて、
同十日の夜、竹の下道、夜をこめて天の明るを待つほどに、辰(=東南東)の一点に一宮(=尊良親王)・新田・脇屋(=新田義貞と弟の脇屋義助)の大将として、「恋せば痩せぬべし」と詠ぜし足柄の明神の南なる野に控へたり。
御方の先陳は山を下りて野山にうち上るに、坂の本にてかけ合ひ戦ひしに、敵こらへずして引退く所を、御方勝ちに乗て三十余里攻め詰めて藍沢原において爰を限りと戦ひしに、
敵数百人討取る間、御感にたへずして武蔵の太田の庄を小山の常犬丸に充て行はる。これは由緒の地なり。また常陸の関の郡を結城に行はる。今度戦場の御下文(くだしぶみ)初めなり。
是を見聞く輩、命を忘れ死を争ひて勇み戦はむ事をおもはぬ者ぞなかりける。「香餌の下には懸魚あり。重賞の処には勇士あり」といふ本文これなりけりとぞ覚えし。
翌日十二日京勢駿河に引退き佐野山に陳を取る処に、大友左近将監(=貞載)官軍してその勢三百余騎にて下向したりけるが、「御方に参らすべきよし」申しける間、
子細あるまじき(=問題ない)旨{尊氏}仰せられける程に、当所の合戦矢合せの時分に御方に加はりて合戦の忠節を致しければ、敵陳早く破れて二条中将為冬をはじめとして京方の大勢討たれぬ。
この為冬朝臣は将軍の御朋友なりしかば、彼頭を召し寄せ御覧ありて御愁傷の色深かりき。
その夜は雨ふりしかば、伊豆の国府を見下ろして山野に御陳を召さる。昨日今日の軍に御方討勝し間、御勢雲霞のごとし。
通夜の雨なりしに、明くる十三日晴れ間をも待たずして伊豆の国府に攻め入給ふ処に、義貞以下の輩水呑の陳を引き打ちて通夜没落しけるが、三島明神の御前を過ぎて海道へ出る時分に御方馳せ合て、辰巳二時の間(=午前六時頃より午前八時頃迄)合戦ありし。
鬨の声・矢叫び戦ひ合ひけるゑいや声、六種震動にことならず。爰において畠山安房入道討死す。義貞残勢わづかにして富士川渡しけるとぞ聞えし。
『梅松論』(ばいしょうろん)は、南北朝時代の軍記物語・歴史書。
下記サイトより
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/baishouron.html