2024年9月11日水曜日

箒沢探石行

 神奈川県箒沢探石行

小出五郎

8月10日、快晴、朝9:30新宿発、世田ヶ谷より東名高速道路に這入る。高速道路の普及によって、自動車は一定の進路を一定の速度で走る。だから途中で花を愛で、風景を楽しむ行動の自由は望まれない。松田から国道246号に這入り、西進、新安戸隧道をくぐって清水橋を渡り右折、ここからが箒沢への道である。休みなしのドライ ブで東京から目的地(箒沢)まで3時間で走った。

途中の焼津部落から先は徒歩で行った曲折の多い道すじも、すっかり改良され、一 ヶ所「落石注意」の標示があったがもはや地図を見ながら着点までの距離を、時間を考える必要もいらなくなった。思えばかつて息子(当時、紅顔の少年)と行を共にした石ころ道を、今日は友人(医師)と車をとばしている・・・・・・その頃の父と子の楽しい採集行の思い出………………今日、文化的と云うことが自然と人との関係を大巾に変えつつある。

ここ丹沢山塊の心臓部、箒沢は国鉄御殿場線・山北駅から「西丹沢」行のバスの終点となったが、山容は昔と変っていない。8月の深い緑の山なみと渓谷の百合の香、 涼しい瀬騒は歓迎の音楽とも聞えて、しばし時の経過を思うのである。これは初老に達した精神現象と云うべきか?

扨て車を止めて旧知、佐藤芳太郎氏宅へ20年ぶりの挨拶、あわただしい立話の内に、採集の都度宿を願った佐藤浅次郎氏が米寿を祝ったこと、三保郵便局長の山口氏が急逝したことなど、山の石友方の様々な変化を知らされた。然るに昔のまま泰然としてそそり立つこの部落の天然記念物、樹齢2,000年、高さ57m、の箒杉にも心からの敬意を表し、更にここから県営「山の家」まで5km、デコボコの砂利道と、昔ながらの丸太組の橋を二つ車で越えて河原に駐車、「山の家」で休憩した。ここは東沢、 西沢を過ぎた中川源流のやや平担な場所で、沢道を飾る山百合と紫の山紫陽花、瀬しぶきに濡れる黄色いキンポウゲの花なども見られる。空気は清澄で気温も低く、清流にも恵まれ県内絶好のキャンプ地になっていた。

今日は国府津、小田原など海岸地帯の小中学校生徒で一ぱい、人影のはなはだしいのに一驚した。この地は植物、小動物(トンボ、蝸牛、ハコネ・サンショウオなど) も豊富であるが関心を示す人は少ないようである。かつて筆者らが「関東の黒部」など、愛好し讃美した渓谷も、その頃の林道が遊歩路に変ったりして、少なくとも昔の自然は失なわれていた。

扱て今日は日帰りと云う制約もあり、深部のスカルン地帯まではとても行けない。少ない時間を効果的にと云うことで、手近な東沢を遡行して採集を行う。友人は水石趣味家で所謂カタチ石の探石を行ない、ホルンフェルスの黒い地肌に長石の白いゴマを散したもの、また方解石が丸い白点を描いて梅花石かと思われるもの、また天然に磨かれた石英閃緑岩など、かなりの収穫があがった模様であるが、鉱物の方は沸石くらいで他にのぞむべくもない。然し沸石類も桜井学兄が本県産の新種を記載してから、この種鉱物に対する新進の関心はとみにたかまっている。疎かにしてはならないと自らを励ましてはみたが、これはと思う程のものは捕られなかった。気分を一転して本流に戻り、今度は水中の転石を探る。流れが翠緑にゆれる水底のあたり、色の美しい石塊を二、三個拾い出してルーペで検べる。小さいが透輝石、ベスブ石、柘榴石などの結晶が見られた。これは奥の白石沢かザレの沢からはこばれたスカルンであろう。急に陽がかげって大室山、畦ヶ丸など 1,000m級の山頂に雲が拡がり大雨来襲の模様、気象の急変はこの地の特徴の一つでもある。キャンプ地の先生達が「テントの周囲に溝を切るよう」指導する放送が遠くから流れてきた。吾々も採集を打切り、午後3:30、車に戻った。帰路には観光開発で旅館が十余軒も出来た中川温泉(硫黃単純泉)に立寄り、採集の汚れを洗い流した。ゆくりなくも近代風な浴槽につかって、変りゆく山村の姿と人影の希であった時代とをしみじみと追想したのである。


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国会図書館所蔵資料
以下同じ

115頁

表紙
「地学研究」
第22巻 第4号(昭和46年4月)