(神戸大学附属図書館所蔵)
京大助教授 本間不二男
図表 (丹沢山塊地形図)
(一) 勧めたい春休みの実地踏査
(一)丹沢山塊の案内
九月一日関東大地震後、人々の頭に突然深く刻みつけられて、魔の山の異名の如くなった丹沢山其の丹沢山を口にする人が丹沢山とは何処にあるかをすら知らないばかりでなく、東海道線の北側に此の山地を眺めて通りながら、それを足柄の連山と感違いして居る人が十中の七八である。
丹沢山塊を踏破せんとして旅立つ人は平塚迄の切符を買うべきである。バラックの東京を過ぎて汽車が蒲田、川崎の辺を疾走する頃其右窓に当って、吾人は霊峰富士の英姿が一脈の連山を距だててそそり立って居るのを見る。東京人がよく足柄山と呼ぶ此の山脈こそは実は此処に紹介せんとする恐ろしの山、丹沢である。
此の山脈の南部が突然切れて一段低い山地に移化し、やがて再び箱根の山塊となって聳えて居ることは、少しく山の景色を楽しむ人人には必ず目に着く事であろう。この山脈の切れ目が丹沢山塊の南端であって、それより南、箱根山までの間の低い山地が足柄山である。即ち丹沢山塊の南端は東海道線、松田、山北及び駿河駅の稍北方に於て限らるる所のものであって、それより北方に二十粁の幅を有し、此の北境を西から東に流れる道志川を越えると、其処に幅十粁の東西に走る道志山脈があって、此の山脈の北麓を洗って馬入川の上流桂川が流れ、又川を上って中央線が甲府へと西行して居る。丹沢山塊の東端は略八王子と平塚とを南北に連結する直線の西側から始まって、其の西端は富士東麓なる山中湖の東岸に終って居る。此の丹沢山塊の中央高峻地帯を略東西に走る一脈の地帯は帝室世伝御料林に属し、之れを一、大山と丹沢山との中間地帯を占むる東丹沢、二、丹沢山と三保村字玄倉との間を占む西丹沢及び三、中川温泉の西部と山梨県界との間を占むる大又沢御料林の三域に区劃することが出来る。従って丹沢山塊の踏破とは単に丹沢山に登ることでなく、これ等の山地を山に攀じ谷を下って踏破することに於いて初めて名実相伴うものである。
(二)数日間の旅程
今私は此の春休の数日を以て丹沢山塊を踏破する人の為めに次のコースを勧めする。東京駅を午前中の適当の汽車で出発すると、約二時間を経て平塚駅に到着する。夫から自動車で厚木に向い、更に自動車を乗換えて西北行し、中荻野で下車する。それから東南して第一夜の宿所別所鉱泉に向う。別所鉱泉は丹沢山塊の東端にある所の稍硫化水素臭を有する谷間の鉱泉である。就寝に先立って、宿の主人に人夫を頼んで置けば、翌朝我々が欲するときに人夫を伴って愈丹沢山地を差して歩を進めることが出来る、煤ヶ谷村の中央から道は右折して、しばし渓谷に沿うかと思う間に、幾程もなく道は爪先上りの急坂に差し掛る。此処から今後数日間の難行を要する丹沢山地の踏破は始まる。心臓の鼓動が漸く高まり、歩行が愈困難になって、一休みせんとして遥来し方を顧みれば、房総三浦の両半島は髣髴として水平直線上に横たわり、江の島は相模湾中に小石の如く残り、脚下近き処には馬入川が蜿蜒として銀蛇を走らすを見れば、快哉の一語は識らずして唇を迸り出るのである。更に左右に眼を転じて両側の峰を見れば、直立せる地層は南北に走って山側を銷る渓谷は僅に弱き地層を洗い流し、両側に板囲いをするが如き谷を形造って流れて居るではないか。急坂にかかってから約一時間、第一の峠を越ゆれば、道は密林の中を行き、渓谷は愈深く山梁は益迫まり、馬の脊の如き山梁を渡ってから暫くは谷川に下って只管に渓流の跡を追うのであるやがて九月一日の地震によって揺り崩された道無き道の跡を辿って、一つの峠を越え、再び谷川に出でて上ること数町、初めて第一日の宿所東部丹沢御料林の事務所が在る札掛の部落に達する。然し春の日は漸く永く、午後四時では未だ太陽も高いので、何処ともなく放浪して九月十五日夜半に起った山津浪の遺跡を訪ねるならば、そぞろに自然の威力に畏縮すると同時に、この仙境の過去の栄華を聴いては一掬の涙なきを得ないだろう。やがて残光漸く褪せて、両岸の森林は益暗く星辰空に燦めき、渓流が星の光を反映しつつ潺潺の音を立てて流るる時、都人士は実に久し振りで、ローレライの一節に無限の思いを遣るこ□□出来るのである。
(三)第二日頂上
明くれば第二日門を出ると□に急坂に差しかかり、丹沢山の頂上さして只管に上り出すこの道すがら周囲の山を眺望すれば、山の南側と言わず北側と言わず唯一面に赤褐色に禿げて、何時の日が宮内省から嘱託されて札掛に来られた豪い人々の評価して帰られた山崩れが、如何にも事実を過小に見積ったものであると、俚人が昨夜その無責任を憤慨した言葉や、此の梅雨期には皆札掛の人々が山津浪を恐れて、里に逃れ去ることに決めて居るということを首肯し得るであろう。斯くの如くにして吾人は少くも五割近くの森林を痛められた東丹沢の御料林を終日下瞰しつつ、悼しい心に戦きながら、時時手に汗をにぎる様な山崩れを岩角に噛りついて辛くも渡り殆ど疲れ切って、丹沢山頂の南粁なる塔ヶ岳頂上孫仏のあたりに辿り着く。難行数時、遂にこの塔ヶ岳山頂の一角に立てば、身は五千尺の高所にあり、眺望は豁然として展け、若し快晴の日を僥倖するあらば、東は筑波山及び房総三浦の両半島、南は大島を初めとせる伊豆七島を雲煙の間に望み、天城箱根の両火山と相対峙し、更に西方に於ては富士山の秀峰を初めとして赤石連峰飛騨の日本アルプス連崗を望む得べく、近くに八ヶ岳の連山が聳え、又北方遠き所浅間の噴煙や、男体、日光、白根或は那須火山等を眺望するに至って、地震の惨害に対する憂苦は何処にか散じ、何時か宇宙宏大の気に融合して浩然の気を吐くのである。休憩することしばし、之より北方二粁なる丹沢山頂上に熊笹の道を踏躪って帰れば、我々は言い知れぬプライドを胸に懐きながら凱歌を奏して下山の道に着く。西南の峰に倚って大倉に下る弱者は下れ、札掛から案内者を伴った我等は西南の峰を走ること一二町、北の沢に就き、西丹沢の本拠庶子平へと勇躍して進むのである。丹沢間を今し踏破し了った我等は余り近いと思う間に庶子平に着いて仕舞う。然し振り返れば今や我等が踏破した丹沢山は峨々として目前に峙ち、疲労し切った我等は再び彼の山を踏破することは出来まいという気がするのである。それと同時に、兎も角も乗り切った今日の努力が涙ぐましい程貴いものであったことを切実に感ずる。
(二)
(四)第三日は玄倉
疲労し切った体を床に横たえると、我々は何時か夢路を辿る。目が醒めると今日も亦実に澄み切った碧空である。西の山は一般には御影石と呼ぶ所の石英閃緑岩の白い山で、朝日に照されて金色に輝いて居る。山の朝は実に清澄其物である。庶子平を出て暫くの間癒えやらぬ股の筋肉の痛みを耐えて谷川を下って行くとき、今日はもう愈下りだけであると思って安心するだろうが、不幸にして我等は復案内者に導かれて、悲しい気持ちを抱きながら山道に掛らねばならぬ。然し悲観する程もなく再び下り道について、それからは只只管に谷川を下り正午には三日目で初めて人里めいた煙草位は買える所の部落に逢着するだろう。此処は玄倉という西丹沢御料林と大又沢御料林との間に介在する三保村の一字である。此の玄倉より遥に西方を望めば、川は一直線に走って両側は急峻な山であるに拘らず、此処は又何たる広い河原であるだろう。殊に川の南岸には広広とした田圃が開け、最早平野も程近い所にあるだろうという感じが切実にするではないか。それだのに此処こそは実に山の中で、これより下流数里、川が南折して更に東折し、酒匂川と合する所まで行かなければ此の様な広い河原は再び見ることが出来ないのであるこの珍らしい盆地の間を西行すること二三十町、川が峡谷を成して奔流する処に於いて西及び北より来る川を合して南折する時、我等は北に途を取り、広い河原の間を行き、一里にして中川温泉に達する。
中川温泉は武田信玄が湯治をしたことがある古い由緒のある温泉であるが、余り感心した湯ではない。地震後温かくなったというけれども、未だ煮かさなければ夏の外は入って居られぬ温泉である。此の温泉場は九月一日の地震の時山崩れで壊れたものであるが、今は兎も角も貧弱な二階家を建てて数人の客が泊れる様になって居る。然しもう一日位は札掛や庶子平の様な山中に泊る程の元気を持った人は、この中川温泉に宿泊することなく、その南なる上原から西折して更に一つの峠を越え、大又沢の地蔵平に宿泊せられんことを希望する。
(五)地蔵平の一夜
地蔵平は丹沢山御料林の西端大又沢区の事務所がある所である。川の両側の山は禿げて山骨を顕し道の側には大正五年八月の洪水で亡くなった遭難者の石碑を建て、更に九月一日の地震では崖崩れで四人の死者を出した等という話を聞きながら、この荒れ果てた大又沢の山奥に泊ることは、何となく滅入る様な感じのすることである。然しこれが丹沢山の最後の夜ではないか。恐ろしいことも悲しいことも今夜の中味わい尽して置くべきである、それに其処を一生の棲家と決心して居る人々のことも考えて見るがよい。我等もこんな心持ちで遂に此処に一泊することに決心した、大又沢の夜は更けて人々は昏々として眠りに落ちて行く。ドーンという底鳴りのする砲声の様な音と同時に、グラグラと地面が揺れる。数秒の初期微動と同時に、地震がやって来たのである。然し丹沢山を乗り切ろうとして居る都人士は度胸が据って居る為めではなく、深く眠って居る為めに驚きもしない。従って朝になっても昨夜の地震の話などはする人もなく、今日こそは最後の日のコースを終えて丹沢山塊踏破の名誉を贏ち得ようと、動かない足を無理やり曳きずって行く地蔵平から城ヶ尾峠まで唯スタースだけが辛い上りである。後は山の尾根を富士の裾野の景色や伊豆半島の眺望を擅にしながら、大して汗をかくこともなく上って行く。城ヶ尾峠にやがて上りつけば、山麓の道志の谷に点々として散在する人家が見える。実に久し振りの人家だ。誰しも涙ぐましい感激がある。勇躍して下る。然し直ぐ目の下に見えた道志の谷も下り出して見ればなかなか遠い。それでもどうにか其処に辿りつけば、道らしい道がある。その道を踏締めたい様な心持ちになって、西北西の道坂峠を谷村へ谷村へと急ぐ。夕方谷村の旅館に腰を下ろすと、もう丹沢山は遥か遠い所にある様な気がする歩いて来たことが何だか夢の様だ然し我等は確かに丹沢山を突破して来たのだ。下で自動車のラッパの音がする。見れば東京市営の乗合自動車と同じ自動車が走って居るではないか。
図表 (丹沢山塊断面想像図)
地形
(一)重要な断層線
既に大船を過ぎ藤沢のあたりにかかれば、富士東麓に起って蜿蜒として連なって来た丹沢山塊が大山の東側を南北に延長する線上に於て、実に突然な仕方によって何か刃物で切られた様な面を有する急斜面を以て突然に相模平野に没して仕舞う。此馬入川の西を南北に走る大断層線は他の多くの之に平行する断層線と共に、単に丹沢山塊の構成に重要であるばかりでなく、実に関東山塊は勿論、日本アルプス以東の日本の構造に極めて重要な線である。これら南北性断層の中丹沢山塊に於いて地形上よく、観察し得らるるものは第二図に示した位の1-13ある。然し丹沢山塊に於ける断層の地質学的意義は、後に述ぶる所の理由によって、これより以前に起った所の造山力による地層の□曲運動及び他の二種の構造線と比較すれば、寧ろ副次的所産に属し、単に地形上の優越を持する所のものである。
此の他の二種の断層の一は、丹沢山塊東部に於いては南北に走り多くは略東西に走る所の辷上り断層の一系統である。試みに丹沢山塊、踏破の第三日目の正午近き頃、三保村玄倉の小高き一角の地点に立って遥か西方を望まば、此の深き山地に如何にして生じたであろうと思われる広豁な渓谷が真東西に走って居ること、及びその北岸は急傾斜をなして水際からそそり立ち、南岸には田野が開け、坂は北岸に比して遥かに緩なるばかりではなく、その山の中腹に往々一つの瘤の如き山塊が融着して居るのを見るだろう。斯の様な事実は地形学上極めて意義があることであって、他の事実と綜合して、これは此の東西の川を境として北方の山地が南の山地の上に辷り上ったことを示すものであって、此の全体の運動は単に北部山塊が南部山塊の上の摺り上ったということばかりではなく、それより遥に大きな分量に於いて、北方の山塊が東方にずったものであることを他の地質学的の考査から証明することが出来る。此の様な断層は恐らくは丹沢山塊の北境道志川沿岸に於ても、これと反対の仕方で起って居るものであって、南部の山塊が東、上の方向に運動して居るものである而して是等の運動はその後の調節作用を意味する東西の正規断層を伴い、これが、或はり上り断層と略一致し、或は稍異なる地点を若干の角度をなして走って居るのでその構造は素より簡単なるを期することが出来ない。この辷り上り断層の存在の状態を知る為めに、丹沢山塊を南北に截断する所の一つの模型的断面を掲げるならば第三図の如くになる。
図表 (丹沢山塊断面想像図)
(二)断層線の影響
斯の様な複雑な構造の上に、更に丹沢山塊の東北端は略西北東南に走る所の極めて重要な断層線によって影響せられて居るのである此種の断層の中地形上に極めてよく現れて居るのは、厚木町から中央線与瀬駅に抜けて居るもの、及び別所温泉から中央線上野原駅に一直線に抜けて居るものである。然しその外に、我等は東海道線国府津駅からその西北松田駅に走って居る所の一つの著るしい断層を看過するわけには行かぬ。この国府津松田の東北側に走る一つの山脈が鉄路の直ぐ上に於いて最も高く、西南の斜面は直に急傾斜をなして酒匂川盆地に落ち込むに反し東北の斜面は極めて緩漫な傾斜をなして長い裾野をひいて居ることは驚くべき地形上の対称である。更に心眼を大局に注げば、此の種の断層こそは諏訪湖畔に起って釜無川を抜け、富士箱根の基底を通過して相模湾を西南に走る所の海溝に連なる一大地溝帯を構成する地質構造線である。而してこの地溝帯は今日本邦に於いて最も運動しつつある「弱点に属するものであって、大正十二年九月一日の地震その他の過去に於いて屡関東地方を襲うた所の地震の大部分は、地下深所に於ける此の弱線の周期的運動に属するものであると地質学上からは解釈されるものである。従って相模湾を取り囲む部分及びその四近の関東地方は、今後恐らく数千年或は数万年の長年月に亙って、一定の周期を以て同様の地震を経験すべきであると解釈せざるを得ない。此地質学的意義に至っては、雑誌「地球」誌上に於いて小川博士の詳説せられた所であるから、今私は此処では之れ以上脱線しようとは思わない。
(三)等高の一大平原
扨て再び問題を丹沢山塊に返して、今少しく精細にその地形を観察するとき、我等は不知不識の間に丹沢山塊が嘗ては略等高の一大平野であったことを認めて居たことに気がつく。旅行の第三日も終りに近づいて、中川温泉から大又沢に越えるとき、その峠の頂上二本杉と称する所に於て、東方の連山を眺望すれば、玄倉の直ぐ北に当って居る山の頂上が極めて平らな地面をなして居ることに気が付く。而して更に他の山頂を精査するに至って、到る処に同様な若干の平地が残って居るばかりではなく、それらの多くの山の頂上は殆ど同じ様な高さからなる数組に分類することが出来ることを見出すであろう。然も此の事実は唯富士や箱根の火山灰を厚く被ったということのみでは説明されない事に想到するとき、我々は初めて丹沢山が嘗て準平原であって、地質年代から言うこと寧ろ極て近い時代に於て、断層によって個々に分たれて一塊ずつの山となって持ち上げられたものであるが、その稍大きな山塊にあっては、谷の蝕浸作用がまだ頂上に及んで居ないものであることを知るのである。この興味ある事実は、山北と小山戸の間に発達する礫岩の層や上野原町の河成段丘の下に発達せる同時代と見らるる礫岩の層に於ても同様である事実、及び他の二三の地質的考察と結びつけて、丹沢山塊が今日の様な山脈に生成した地質年代を説明する上に、極めて重要な材料を提挙するものである。
(三)
(四)岩石の温泉作用
既に地形上の種々の材料を蓄積した、我等は多くの渓谷が南北又は東西の断層線に沿うて流れて居ることを発見するのであって、これは更に精査することによって断層面を通って噴出した恩背んいよって分解されて軟かくなった岩石を流して生じた谷であったことを知るのである。丹沢山の岩石の或るものが極めて美しき緑色を呈して居るのは此の為である。然し又同様の温泉作用が、或る部分ではマンガンに富む鉄錆を沈澱して赤褐色にやけて居る。この赤褐色のヤケこそは丹沢山の名によって起った所であろうと愚考する。試みに道志川に沿うて、道志村役場の所在地竹ノ本の稍西の石英脈を東に追うて見るならば、石英脈はやがて消えるが、赤褐色の著るしいヤケとなって川沿いに出て居る。この脈は小善地の東の川床に鉱泉を湧出し、又道端には木葉を含む褐鉄鉱の湯垢を沈澱して居る。これが大椿の東で更に石膏を沈澱し、尚東して道志村の名所七滝のあたりに行けば、白色又は水色に分解された粘土質の岩石となって、一方は雁道峠に抜け、一方は西に直進して月夜野方面に走って行く。此の断層砕破岩帯が広く温泉作用をうけて一脈の岩帯をなすときは往々にして始成の地層と誤り易いばかりではなく、不幸なことには此処が多く谷の発達する所であり同時に道のある所であることは地質調査をするものにとっては遺憾至極なことである。然も更に煤ヶ谷から札掛に至る谷川や、札掛から北方宮ヶ瀬に下る谷川に沿うて見られる板の様に並立する所の地層の軟かいものを洗って作られた走向谷を見るに於ては、其地層の走向も傾斜も誤ろうとして誤り得ないのである。この様な岩質による分化浸蝕は単に斯様な小規模な仕方ばかりではなく、丹沢山塊全体に於て極めて顕著に行われて居る。即ち西丹沢の東西に走る石英閃緑岩地帯に於ては、山は皆小峰に離立して極めて錯雑して居るに拘らず、石英閃緑岩の接触変質を受けた大群山、蛭ヶ岳の如き山は高く大塊を成して聳え、又安山岩地方では温泉作用を受けない部分は皆その附近での一段高い大塊の山となって聳えて居る。而して丹沢山塊全体としては現在若壮年期の地形にあるものである
構造地質
丹沢山塊の大部分は本邦に於ける地質学上の難問題とせられる第三紀層に属する所謂御坂層によって占らるるもので、御坂層なる語源は富士七湖の一、河口湖の東岸河口から甲府盆地に越ゆる御坂峠に於て、標式的に発達する為めに、此の名称を附せられた。本層は此の丹沢山塊の外富士北麓と甲府盆地との間の地帯、富士東麓に当る富士川の両側地帯、諏訪松本上田によって囲まれる美ヶ原台地の周辺、上田市北方の一塊及び群馬県と新潟県との境界にあたる上越線清水峠の周囲の地塊に発達する特殊の地層である。本層中の或る累層は其の中に含まるる石灰岩中に存する化石の研究によって、略第三紀中新期に属すべきことを矢部博士は述べられて居るが、他の岩石学的特徴としては本層は必ず石英閃緑岩に極めて接近して発達すること及びその累層が極めて著るしく火山岩質のものを含み、時に部分的に結晶片岩を構成し、其のある水準に於ては石灰岩を含むことである。従って御坂層は本邦地質学の創設時代から既に海底火山の噴出物の堆積によるものであるとは知られて居たのであって其の後故加藤鉄之助氏によって西丹沢の南部及び足柄地方が研究せられ、御坂層の分布と岩質が明にせられ、層序学上の意見も述べられたが、今私は層序学上の考えに就ては氏と極めて異なる結論に達して居る。然し氏の仕事に対しては御坂層の分布及び主なる地質構造線の存在する地帯の発見に対しその功績を称賛する。その後村上博士が嘗て大学の卒業論文に、その北部道志村より中央線が走る桂川沿岸迄の地質研究に於て、極めて有益な地質学的の結果を納められて居るが、御坂層を三部に分たれ、その中部層を石英閃緑岩の岩漿が地表に其処にあった水成岩の角礫を含んで流出したフローブレッチアであるという意見を発表されたことは、卓見と称せざるを得ない。唯大群山上の接触変質を受けた累層が此フレーブレッチアより上層のものであると認められたこと、及び帆立介の化石を産する角礫岩累層を御坂層を不整合に被覆する若き地層と考えられたことに対しては私は賛意を表し得ない。
私が此の数十日間大体を観察して達した丹沢山塊の地質構造に対する意見は今日迄若干の人々によって局部的に研究せられたことに対し稍統一を見出したと同時に、嘗て或る人々によって予期されながら深く研究されなかった若干の地質学的踏査を遂げることが出来たことである。私がその結論として今此処に掲げ得るものは其内の次の三項に対する概略である。
一、丹沢四近の御坂層の層序関係、二、石英閃緑岩と御坂層との関係、三、石英閃緑岩の迸入様式と丹沢山塊の摺曲作用
一、丹沢四近の御坂層の層序関係
丹沢山塊の層序学に対して一は化石の産出の少く、走向傾斜の露出悪きこと、二には御坂層自体の岩相が頗る特異な上に、石英閃緑岩の接触変質や其後火山作用及び造山運動の際の動力変質によって同一水準の地層が著るしく異相を呈することによって岩石学上の区分が頗る困難であった為め、今日迄此の問題に触れた人は皆若干の謬見に達した様に思われる。私は道志川沿岸及びその南岸山頂に於ける岩石の走向斜傾の状況より判断して、石灰岩を含む硅質凝灰岩及び青色輝緑岩質岩及びその角礫岩等の累層を丹沢山塊に於ける御坂層下部とした。本層は石英閃緑岩によってバソリス状に貫かるるもので、部分的には嘗て多くの人人によって述べられた様にラコリス状を呈する。本岩が粗粒石英閃緑岩の大塊に接近して存在し、同時に断層線に沿う所に於て結晶片岩となることが観取される。又石灰岩が直接粗粒石英閃緑岩に触れる所に於ては、柘榴石輝石硅灰石等の接触変質鉱物の塊となり、稍離れて石灰岩は大理石となってその間に赤鉄鉱を沈澱するを見る。本層を整合に被覆する帆立介の化石を含む角礫凝灰岩あたりより上部の地層を私は中部層とする。本累層は帆立介の化石を含む角礫凝灰岩、凝灰岩、石英閃緑岩漿のフローブレッチア及びインヂェクションブレッチア(二者介化石を含む地層と外見は酷似して居るが元来火成岩であるから遥に硬い。)よりなるものである。而してその上部層は複輝安山岩の集塊岩、集塊岩様鎔岩、鎔岩、凝灰岩及び泥流等よりなる円錐形火山の産物である。此の火山円錐体は本層の分布より判断してその然るを突き止めたのであって、此の最上層の一部分がその噴火の当時に於て恐らく一つの島嶼を構成したであろうと想像するが、私は未だその確証を握って居ない。然しその基底に於て中部層との間に何等不整合のないことは私の確信する所である。同時に此の複輝安山岩及び其の集塊鎔岩は所々に於て裂線に沿うて岩脈をなし、中部層以下の地層を貫いて居ることを見る。此れ等の御坂層の全体の厚さは丹沢山塊に於ては恐らく五千米突前後のものである。
二、石英閃緑岩と御坂層との関係
惟うに丹沢山塊に於ける石英閃緑岩岩漿初期の迸入は、日本アルプスの構成と同一なる原因、或はそれと最も緊密な地殻運動によって生じた所の諏訪釜無相模湾の地溝帯を走る裂線の一つに起ったものであって、海底において当時石灰岩及びその他の水成岩を沈澱しつつあった地層を破り、又地層間に多くの基性岩層を注入しつつ、遂に地表に露われ、海底の泥土や自己が上昇中に捕えた地下深所に於て基盤を構成した岩石、或は岩漿自体の早く冷却せるものの破片を捕えながら、発作的に時々海底に流出したものである。而して是等フローブレッチア或は其間に注入せるインヂェクションブレッチアによって漸く海底下が堅硬な火成石の冑を被るに至って、残りの石英閃緑岩岩漿は勢力をその中の冑の偶然に生じた一個若くはそれ以上の弱点に集中して、遂に噴火口を有する火山円錐体を構成するに至ったものと思われる。若し果して本邦に於ける所謂御坂層が斯の如き操作によって構成されたものであるとするならば、石英閃緑岩岩漿が御坂層の材料を供給したものであるから、御坂層が石英閃緑岩を離れて存在し能わざることは自明の理であらねばならぬ。
三、石英閃緑岩の迸入様式と丹沢山塊の摺曲運動
蚕が自ら吐き出した糸で我身を包んで仕舞った様に、石英閃緑岩の岩漿は先きに噴出した岩漿の為めに遂に自らを硬い殻の中に閉じ込めて仕舞った。而して俄に地表に流れ出して多量の岩漿を流出し同時に多量の熱量を放散して仕舞ったその当時こそは、暫くその運動も鎮静し得たであろうが、既に地下浅い所に通路を穿った岩漿はやがて力強く地表を持ち上げ始めた。此の力は今日丹沢山塊に見る多くの辷上断層によって知ることが出来る如く、明かに西方の地下から来たもので、その為め丹沢山塊は石英閃緑岩塊の上に於て持ち上げられ、やがて海上に聳えるに至った。而して西から押上げられた地層は恐らくは馬入川附近の地下に存在する堅き地塊に阻まれて南北に走向を有する一つの著るしい摺曲を構成するに至ったのである。従って地層は東への傾斜が西への傾斜に比較して一般に著るしく急であり、同時に摺曲は丹沢山塊の東端大山三峰山の附近において最も著るしく、皆九十度近くの傾斜をなし、恐らくはその一部分は九十度を越ゆるものもあろうと思われる。丹沢山塊が辷り上り断層によって陸地となるに従って、その周囲に此の山から転がり出した転石によって極めて急速に□岩の累層が構成された。これが即ち足柄層と呼ばれる山北小山間の酒匂川の両岸や、道志川の東部或は相模川の与瀬上野□鳥沢の間に発達する礫岩層で、褐炭若しくは埋木を含み、丹沢山塊生成当時或はその後に起った摺曲作用に影響されて極めて急傾斜をなして発達して居るのである。
此の石英閃緑岩の岩漿の丹沢山塊に於ける過去の運動は以上の如くであって、私の述べようとする丹沢山塊の地質構造に関する意見は之れで大体尽されたのであるが此の石英閃緑岩を生じたが今日冷え切って仕舞ったと考えることは到底出来ない。今日尚地下深所にその大部分が融解して存在し、今日此の地帯に存在する多くの火山の活動の淵源となり、同時に九月一日の大地震を起した原因ともなるものであることが、今後の研究によって何時か証明されるに至るだろうことを私は予期するものである。(終)